自分の中に生まれるものを見つめたい

この一年で生まれた、私たちの仕事や生活を大きく変える可能性のある技術はなんといってもAI・機械学習を応用したさまざまなサービスでしょう。

とあるツイートが紹介していましたが、この一年だけでも話題になったChatGPTやGPT-3、DALL-E、Midjourney、Stable Diffusion、GitHub Copilotといったように、簡単なテキストを鍵情報として画像を生み出すサービス、テキストを生成するサービス、あるいはコンピューターのコードを生み出すサービスなどが登場しました。その手軽さと精度は、私たち個人の生産性を圧倒しており、すでに現実の仕事でもそれを応用する動きが活発になっています。

もちろんその倫理性や妥当性については多くの議論があります。

画像の生成は元となっている情報の蓄積があるからこそ生み出せるもので、間接的にアーティストの才能を剽窃しているといえないか? 論理的な真偽と関係なく大量に生み出されるテキストが検索エンジンの有効性を下げ、悪貨が良貨を駆逐するように情報の価値を押し下げないか? といったようにです。

そうした議論にも価値はありますし、AI・機械学習が生み出す大量の生成物に対する危機感も理解できます。しかしこうしたツールがもたらす利便性は抗い難い力になって、今後利用が爆発的に広まることは避けることはできません。

しかしその一方で、私がこうしたツールの使用をそれが妥当であるところに限定して、普段自分が執筆するブログやツイートをAIに書かせるつもりがないのにはもう一つの理由があります。

それが自分の中から生まれた言葉ではないからです。

自分の中から生まれるものに耳をすます

AIや機械学習のサービスは大量の絵や文章やコードを生み出すことができますが、それが良いものか悪いものか、利用できるものか利用できないものかを判断するのは結局のところ私という人間です。

たとえばここに面白そうな小説の原稿があったとして、それが人間の書いたものか、AIの書いたものかは私自身にはそれほど問題ではありません。それが面白い小説で、作者について知りたくなったときにそれがAIであったことを知ったときに意外な気持ちにはなるかもしれませんが、「読む」こと「楽しむ」ことの主体は私自身です。

この「私は面白いと思った」という感情は私の中から生まれたものです。面白いと思うかどうかは私の審美感であり、他の誰かに、あるいはAIに代わってもらうことができないものです。

同じことは文章を書くこと、ブログを書くこと、動画を作ることなどにもいえます。楽をしてある程度の精度の文章を書くのが目的ならばAI・機械学習のサービスをどんどんと使うことでしょう。しかし「自分のブログを書く」ことが目的ならば、審美感の舵を手放すことはできません。

いかに簡単に絵を描くことができるようになっても大量の文章を生み出せるようになっても、その良し悪しが判断できるか、自分の心にかなったものができるかは、自分の心のなかにあるものとの対話なしには結論が出ません。

だからこそ、もっと本を読みたい、もっと音楽や芸術の美を体験したい、そして自分に生み出せるものを生み出したい。

同じようなものをAI・機械学習にも生み出せるとしても、自分の中から生まれでたという確信があるからこそその価値がどこにあるのかを知ることができること。そうした審美感をもつことが、長い目でみたときに大きな意味を持つのではないかと考えています。

自分以上に上手に書ける人がいたとしても、その記事を自分が書くことには意味がある。自分以上に読むことできる人がいたとしても、自分の代わりにその本を読める人はいないこと。つまりは自分以外に、自分の人生を生きることができる人はいないこと。

今年もこのブログでは、そうした「自分自身を手放さない」情報についてご紹介していきたいと思います。

AI
堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。