学校は何のためにあるのか。神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは「今の学校は子どもたちを格付けする評価機関のようなところになっている。それは本来の学校教育の目的ではない。子どもというのは『なんだかよくわからないもの』であるということから始めるべきなのだ」と指摘する――。

※本稿は、内田樹『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)の一部を再編集したものです。

日本の学校の誰もいない教室
写真=iStock.com/Yoshitaka Naoi
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学校は「格付け」するところではない

今の学校は子どもたちにテストを課して、その成績で「格付け」する評価機関のようなところになっている。しかし、私は子どもたちを査定して、評価して、格付けするというのは、学校教育の目的ではないと思う。学校は子どもたちの成熟を支援する場だと思う。

子どもというのは「なんだかよくわからないもの」なのである。それでいいのだ。そこからはじめるべきなのだ。子どもたちをまず枠にはめて、同じ課題を与えて、その成果で格付けするというのは、子どもに対するアプローチとして間違っている。

昔の日本では子どもたちは七歳までは「聖なるもの」として扱うという決まりがあった。渡辺京二の『逝きし世の面影』には、幕末に日本を訪れた外国人たちが、日本で子どもたちがとても大切にされているのを見て驚いたという記述がある。だが、これは日本人が子どもをとても可愛がっていたというのとはちょっと違うと思う。可愛がっているのではなく、「まだこの世の規則を適用してはいけない、別枠の存在」として敬していたということではないかと思う。

子どもは七歳までは「異界」とつながる「聖なる存在」だった

中世以来、伝統的にはそうなのである。子どもは七歳までは「異界」とつながる「聖なる存在」として遇された。だが、その年齢を過ぎると、そのつながりが切れてしまう。アドレッセンスの終わりというのは「異界とのつながり」が切れてしまう年齢に達したということである。そうやって人間は「聖なるもの」から「俗なるもの」になる。

だから、「この世ならざるもの」とこの世を架橋するものには童名を付けるという習慣がある。「酒呑童子」とか「茨城童子」とか「八瀬童子」とか。彼らはこの世の秩序には従わない存在である。

牛飼いもそうだ。牛飼いはその当時、日本列島最大の獣である牛を御する者であるから、異能の持ち主、聖なる存在である。だから、牛飼いは大人でも童形をして、童名を名乗った。京童もそうだ。別に彼らは子どもではない。大人なのだけれど、「権力にまつろわぬ人たち」だから「子ども枠」にカテゴライズされた。

船もそうだ。船には「なんとか丸」という童名を付ける。船は海洋や河川という野生のエネルギーが渦巻く世界と人間の世界の「間に立つ」ものである。野生と文明の境界線上に生きるものだから「子ども」枠に類別される。