バラエティ番組「電波少年」シリーズ(1992~2003年、日本テレビ系)で放送された数々の企画は、いまでも伝説として語り継がれている。社会学者の太田省一さんは「人間を極限状態に追い込んだからこそ生まれる笑いと感動があった。いま同じような企画を放送することは不可能だろう」という――。

『進め!電波少年』の人気を確立した企画

1990年代、テレビの世界を席巻したのが「ドキュメントバラエティ」だ。笑えるバラエティと真面目なドキュメンタリーという、一見水と油の関係の2つを結びつけた番組のこと。その先鞭をつけたのが、『進め!電波少年』に始まる日本テレビの『電波少年』シリーズだった。テレビ史に残る「事件」の連続だったその歴史を改めて振り返ってみよう。

1992年7月に始まった日本テレビ『進め!電波少年』。その人気を確立したのが、1996年4月から放送された「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」だった。

無名の若手芸人コンビ・猿岩石(森脇和成・有吉弘行)の2人が香港を出発し、ヒッチハイクでロンドンを目指す。出発時点で10万円を渡されるが、それがなくなったらあとは自分たちでなんとかしなければならない。

そもそも2人は、別の仕事とだまされて香港に来ていた。そしていきなりヒッチハイク旅のことを聞かされたのである。どれほど大変なことになるかピンと来なかった2人は、わりと簡単に引き受けてしまった。

ところが、旅は想像を絶する苦難の連続だった。野宿続きは当たり前、時には飲まず食わずで数日間ということもあった。栄養失調になったこともある。だがそれもまだましなほうで、有り金を全部盗まれたり、犯罪者と間違われ留置場に入れられたりもした。

ヒッチハイク企画はテレビ界の「事件」である

そんな2人を、視聴者は家族か親しい友人を見守るようにハラハラしながら応援した。そして無事危機を脱出したときにはホッと安堵した。爆風スランプがインドにいた2人のもとにわざわざ出向き、オリジナルの応援歌「旅人よ〜The Longest Journey」を熱唱したこともあった。

そして半年後の10月にロンドン・トラファルガー広場に無事ゴール。その様子は実況中継もされた。いかに世間の関心が高かったかがわかるだろう。

猿岩石が帰国してからの熱狂ぶりも凄かった。道中の心境を赤裸々に記した『猿岩石日記』は累計250万部を売り上げた。また藤井フミヤが詞と曲を書いた「白い雲のように」を猿岩石自らが歌い大ヒット。こちらもミリオンセラーとなった。有吉弘行が昨年末藤井フミヤとともに『NHK紅白歌合戦』で歌ったのも記憶に新しい。

世の中の盛り上がりもそうだったが、このヒッチハイク企画自体がテレビバラエティ史におけるひとつの「事件」だった。

ヒッチハイク
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