イスラエルとパレスチナの対立は100年以上前から続いている。なぜ中東で戦争が繰り返されるのか。国際政治学者・舛添要一さんの新著『現代史を知れば世界がわかる』(SB新書)から、ハマスがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けた経緯を紹介する――。

※本稿は、舛添要一『現代史を知れば世界がわかる』(SB新書)の一部を再編集したものです。

イスラエルとパレスチナの過激派組織ハマスとの紛争が続く中、ガザ地区南部のカン・ユニスの破壊された建物が並ぶ道路を歩く人々
写真=AFP/時事通信フォト
イスラエルとパレスチナの過激派組織ハマスとの紛争が続く中、ガザ地区南部のカン・ユニスの破壊された建物が並ぶ道路を歩く人々(=2024年4月23日、パレスチナ)

イスラエルとパレスチナはなぜ対立しているのか

第一次世界大戦のとき、イギリスは対戦国ドイツの同盟国オスマントルコを後方から攪乱かくらんするために、アラブ人の力を借りた。

見返りに、戦後にアラブに独立を認めるとしたのである。この協定は、イギリスの中東担当弁務官マクマホンとメッカの太守であるフセインの間で、1915年7月から1916年3月の間に交わされた書簡の内容で、「フセイン・マクマホン協定(書簡)」と呼ばれている。この約束に基づいて、アラブの反乱を指導したのが、映画などで有名な「アラビアのロレンス」である。

フセインは1916年にヒジャーズ王国を建国し、1918年にはフセインの子であるファイサルがダマスカスを占領し、シリアの独立を宣言した。

悲惨な結末を招いたイギリスの「三枚舌外交」

しかし、イギリスは二枚舌、三枚舌外交を展開した。1916年、三国協商を結んでいたイギリス、フランス、ロシアの三国は、戦後にオスマン帝国を分割して管理するという秘密協定を結んだ。

その具体的な内容は、イギリスがイラクとシリア南部、フランスがシリア北部とキリキア(小アジア東南部)、ロシアはコーカサスに接する小アジア北部を領有し、パレスチナは国際管理するというものであった。ロシアは、1917年のボリシェヴィキ革命(59ページで後述)によって秘密協定から離脱した。この協定は、交渉したイギリスの政治家サイクスとフランスの外交官ピコの名前から「サイクス・ピコ協定」と呼ばれる。

この協定とフセイン・マクマホン協定が矛盾していることは明白である。

さらに、1917年11月、イギリスは、戦後、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを認めるとユダヤ人に宣言した。これは、ロイドジョージ内閣のバルフォア外相が、ロンドンのユダヤ人財閥のウォルター・ロスチャイルドに書簡を送って記したもので、公開された。これを「バルフォア宣言」と呼ぶ。

世界のユダヤ人の間ではユダヤ国家の樹立を求めるシオニズムの運動が高まっており、イギリスはそれに迎合し、ロスチャイルド家などからの戦費の支援を期待したのである。

第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となり、ユダヤ人は入植を開始し、国家建設の準備を始めた。アラブ人は、バルフォア宣言の撤回を求め、ユダヤ人を襲撃し、ユダヤ人も自衛のために武装した。

今日に至るパレスチナ問題の源は、イギリスの二枚舌、三枚舌外交にある。